ひとむかし、それまでずっと自分の底のほうにどろどろとヘドロのようにこびりついて取れなかったなにかが爆発して、わたしは糸が切れたようになってしまい、そのときの恋人にも家族にも友人にも知らせずにタイへ行った。

準備はそれなりにしたので言う機会はいくらでもあったのだけど、言うのがめんどうだった。なんでタイだったかというと、とにかく暑い、自分のことを誰も知らないどっかに行きたくて、当時のお財布と折り合いがついてかつ行ける先がタイだった、というだけの理由。肥大した自意識と自己愛とそれを補ってあまりある劣等感と自分嫌い、自分の嫌いな自分自身の目から見る世界は、けして美しいものではなかった。

湿気と熱気と熟れ過ぎた腐る直前の果物のにおいのする国で、しばらく何も考えずに過ごした。タイで見た人や会った人の暮らしは、朝起きて働き、食べ、飲み、笑い、怒り、眠る、単語で並べるとわたしとほとんど変わらないのになぜか随分とシンプルに見えた。自分を振り返る時間は腐るほどあった。へんな柄のTシャツをただ着て道端に座り、街ゆく人々を見ながらぼんやりとしていた。タイでは生きることとは生活だった。では自分にとっての生活とはいったいなんだ?

そのとき許す限りの時間をタイで過ごした。自分探しの旅という、気持ち悪いことを本当にしたのに、全くもって自分を見つけることはできなかった。家族にはタイに行って2週間後に連絡したのだけど、恋人には知らせるのを忘れており泣かれた。その恋人とは帰国後3週間して別れた。わたしは何も言わずにタイに行った理由を最後まで彼に話すことはなかった。

もう随分昔のような気がする(実際昔だ)。でも、もっともっと遠い記憶のように思った。どうしてだかはやっぱりわからない。今のわたしにとっての生活は、日々の自分を大切に生きることだ。自分の周りにある何かをなるべく見逃さずに覚えておいて、それから生まれる何がしかの自分の考えや感覚も覚えておくこと。考えることを止めないこと。

今日、久しぶりにタイにいたときの自分のことを思い出した。あの時爆発したどろどろしたものは、今はその濃度を薄めてはいてもたぶんまだわたしの中にある。あの時の自分の疑問に答えなんてさっぱり見つからないままで、わたしは30歳になった。でももしあの爆発が今の自分に起きても、きっとわたしはタイへは行かない。成長であろうが退行であろうが、それはもう、どっちでもいい。